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何が「不適切」を決めるのか

記事作成日2024/05/07

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「不適切にもほどがある!」というドラマが話題となりました。阿部サダヲ演じる昭和のダメおやじ(小川市郎)が1986年から38年後の現代にタイムスリップし、コンプライアンスぎりぎりの「不適切」発言で現代に混乱を巻き起こす、宮藤官九郎脚本のコメディドラマです。

今の常識ではセクハラ・パワハラと言われる昭和の価値観ですが、その極論が観る者に考えるきっかけを与えてくれます。いったい私たちの何が、市郎の発言や行動を「不適切」と感じさせるのでしょうか。

本当に自由に考えられているか

「働き方って“がむしゃら”と“馬車馬”以外にあるのかね?」という市郎の発言は、現代に生きる私たちの常識からは外れています。少なくとも社員に向けて発したら、時代錯誤も甚だしいブラック企業と言われかねません。

しかし、現代の価値観などお構いなしの市郎は、一人で仕事を抱えて残業することはダメなことかと疑問を投げかけるのです。働き方に多様性を認めるのであれば、一人で仕事を抱え込むのもその人の働き方であり、自分の働き方は自分で決めてもいいのではないかということです。

もちろんこれは極論ですが、このことをきっかけに、残業している人がいると帰りたくても帰れないという同調圧力の存在、いつの間にか多様な働き方に反し画一的な働き方を強いている矛盾に気づくのです。「社員のやる気をそぐのが働き方改革ではない」ということには、私たちも同意できるのではないでしょうか。

ところでこのような市郎と私たちの価値観の違いは、昭和と令和という時代の違いによるものです。「24時間戦えますか」というCMソングが流行し、日本人の多くが猛烈サラリーマンであった時代背景の中で考え行動しているのが市郎です。

時代が変われば価値観や常識が変わるということですが、このことは同時に、私たちが今の時代の常識という制約の下でしか自由に考えられていないということでもあるのです。このような考え方を構造主義と言いますが、私たちは時代や地域、環境など何らかの社会集団に属しており、自分が属する社会集団が常識として受け入れたものだけを見させられ、感じさせられているのです。

私たちが自分の考えについて客観性を疑い、もう少し自由に感じ、考えたいと思うのであれば、まずは異なる価値観に積極的に触れてみることが一番ではないでしょうか。

なりたい自分に向けて行動する

この構造主義の考え方によると、人は常に何らかの社会構造の範囲でしか考えられておらず、本当の意味で自由に又は主体的に考えられていないため、絶対的な人間性や絶対的な自己というものも存在しないということになります。

それゆえ自分が「何者であるか」を自分では説明することができず、自分が他者との関りの中でどんな行動をし、どんな振る舞いをしたかを事後的に振り返ることで、自分がどんな存在であるかを後で知るという解釈になるのです。

ドラマでは、娘のことで悩み行動する市郎の姿や、市郎とは逆に令和からスマホの無い昭和にタイムスリップし、好きな女の子を心配して町中を探し回るキヨシの姿に、大切な相手を想う人の姿を感じることができます。人間関係の中でどんな行動をしたかによって市郎やキヨシがどんな存在であるかを説明できるようになるということは、いつの時代でも変わらないことなのです。

そして行動が私たちという存在を形づくるということは、まず自分がどうなりたいかという大まかな方向性を決めたら、あとは少しでも近づくよう挑戦し続けることが大切だということです。

TOMAにもこの春、新卒社員が入社しました。育ってきた時代や環境が異なり、価値観や考え方が異なる世代に対して、我々は自分の考えを伝え教えることだけでなく、本人がなりたい自分に向かえるよう行動を上手く促していくことが、上司として大切なことではないでしょうか。

TOMAコンサルタンツグループ株式会社 
代表取締役社長 
市原 和洋
代表メッセージはこちら

<チェックポイント>

□自由な考えのつもりでも、今の時代の常識という制約の下でしか考えられていない
なりたい自分の方向性を決め、少しでも近づくよう挑戦し続ける
上司としては、部下自身がなりたい自分に向かえるよう行動を上手く促すことが大切